遅い春

 3月に入ったとき、もうこれで暖かくなるだろうと思った。北東北とは言え、これまで数年間暮らした記憶では、3月と言えばやはり暖かくなってきていた。

 この冬は風が冷たかっった。私自身が歳を重ねて、少しづつ体力が落ちてきていることもあるとは思うが、そればかりが原因ではなく、やはり外気の体感の冷たさが気温よりもかなり厳しく感じられたこともあり、散歩へ出かけるのをやめたことが幾度もあった。

 そうは言っても、2月も過ぎ3月に入ったのだから、いくら北東北とは言え、いつもの年のようにそろそろ散歩日和が続くだろうと、心の中で期待していた。その期待は、あっけなく裏切られてしまった。あたたかい日がなかったのではない。しかし、すぐに寒の戻りになる。そして、その寒の戻りが居座るのである。こんなことで、3月と呼べるのだろうか。もちろん誰も責めたりできないことだが、多少気が滅入ってしまうのは致し方ないことである。

 評判のよくないクレーマーにでもなって、テレビ局の天気予報士にクレームをつけて八つ当たりできたらよいのかもしれないが、あいにくというか幸というか、わたしはどのテレビ局の気象予報士にもたいへん好感をもっている。だから筋違いで愚かなクレームなどは、予報が大きく外れたとしてもする気はまったくない。そもそもわたしは、気象予報が好きなのである。気象について詳しい知識に基づいて、毎日丁寧に予報をしているのを見ると、尊敬の念を覚える。

 しかし地球温暖化だというのに、どうしてこの冬から春にかけて、こんなに寒かったのか。東京や北陸などでは、すでに3月中旬に夏日になった日もあったようであるから、そこには地球温暖化が影響しているのだと思う。しかし、その東京ですらこの2、3日は花冷えだそうだ。おそらく、地球温暖化は同時に地球の気象変動をもたらし、全体的には温暖化しつつも、気象変動の影響で、これまでとは違った形で逆に寒さがきびしくなったりする時期や場所があるのだろう。

 振り返ってみると、人生には、気象変動や地盤変動に似たことが間断なく起こる。どの一年をとっても、前年から予想できた〈未来予想図〉の通りになったりはしない。間断なく生じる人生の局面の変動は、それまで経験したことのない初めての状況であることが多い。それであっても、時々に応じて舵を切り、小波も大波もなんとか乗り切っていかねばならないのが、人生である。

 わかりきった人生訓を予め学んで、それを遵守していれば大丈夫だといったふうに簡単にはいかない。人によっても千差万別だし、時や場所によっても、状況は大きく変わる。もっとも重要なのは、柔軟な思考力であろう。基礎的な知識は不可欠だが、知識だけではどうにもならないことが多い。まったく新たな状況では、対処方法も新しいものが必要になる。

 散歩の効用の一つは、日々世界が新しくなっていることを、肌で感じられることである。毎日天気も違うし、草花や樹木の様子も日々成長し、また枯れてしまうこともある。立ち止まって風景写真を撮ってたとしも、その景色とまったく同じものを見ることは二度とない。立ち止まってニュース速報をみれば、災害や戦争や事故など、世界中に無数の大変動が生じているのを瞬時に知ることができる。

 現実が辛いと感じるときは、情報をたくさん見ることは止めて、のんびりと街歩きをする。家々の庭先に咲く花を眺めて気持ちを慰め、ときどき大空を見上げほんの数秒でだけでも、その美しさに魅了されてみる。世界中に思いを馳せてみるのも、自分だけの想いに立ち戻って自分の心を労るのも、すべて散歩をしながらできることだ。いや、むしろその方が、室内に一人だけでいる時よりも、さまざまなことを受け止め経験する端緒をつかむためには、より適切だと思う。

 外に出て散歩をしただ空間的に広い場所にいる時間をもつことだけでも、孤独を楽しむにしても、また逆に孤独を癒すにしても、たいへん適していることようにわたしは感じる。

 寒かった日曜日も終わろうとしている。明日は年度末だ。そして、火曜日からは新年度が始まる。

Photos: 2025.3.29 Towada City.

春を待ちつつ

 この冬は青森県は大雪だった。しかし、どうしてか十和田市ではそれほどでもなかった。青森市や弘前市や酸ヶ湯温泉の大雪のニュースが毎日のように続いていたので、十和田市でも同じような大雪に見舞われていると思われた方も多かったことと思う。しかし、実際は、それほどの大雪は十和田市ではなかった。2、3年前にかなりの大雪が続いたことがあったが、その時と比べれば、積雪は比較的少なく、除雪車もそれほど頻繁には来なかった。

 ただ、降雪はそれほどではなくとも、寒さはかなり厳しかった。寒さというのは、天気予報で使う観測された気温というよりも、むしろ体感として感じられる寒さが、測定された気温よりもずっと寒いと感じることがたびたびあった。

 外の風がとても冷たかった。2、3年前は、真冬でかなりの積雪が残っていても、朝のゴミ出しのあと、そのまま歩き出し、小一時間の散歩をすることも時々できた。実際、この冬も、昨年末ごろまではそれと似ていてときどき散歩もできた。新年になってからはだいぶ違った。積雪が少なく、気温もそれほどには低くない日でも、体感される外気が冷た過ぎて散歩など到底無理だった。

 2月後半になっても、まだそんなとても冷たい風が吹く日が多かった。昨年までだと、2月末も押し迫り3月が近づくころには日差しの温もりの暖かく感じられる日もあって、晴れた日の散歩は結構楽しむことができるようになっていた。年が明けて新年になってからの冬の寒さはまったく違った。冷たい風が吹く日が多く、春が近づいているようにはなかなか感じられなかった。

 振り返ってみれば、この地球上に一体本来の春はやって来るのだろうか。あまりに多くの人びとが苦しみの中に閉じ込められたままの日々を送っている。そして春が来るかなと思っていると、それどころかさらなる寒風が吹きすさび始める。

 3月に入ってからも、暖かい日があったかと思うと、またとても冷たい風の吹く真冬のような寒さが戻って来た。まるで虐められているようにすら感じられた。春を待ち侘び、明るさと軽さと暖かさの到来を待ちわびているものの気持ちとしては、挫かされずにはおられなかった。

 多くの人が何が正しいことであるのか知っている。それだのに、なぜか正義が実現しないどころか、ますます遠のいて行くようにすら見える。わたしは長く教師をして、それなりに一生懸命働いた。それが、老年になってから、世界中の苦しむ人がだんだんと増えて行くような世界になるとは夢にも思わなかった。わたしの仕事など、世の中のためには、なんの役にも立たなかったのではないかとすら思へてくる。

 先日、カトリックのミサに初めて行った。50年以上前にプロテスタントの洗礼を受けていたが、これまで一度もカトリックのミサには出たことがなかった。それが、どうしてなのか自分でもわからないのだが、ふとカトリックのミサに出てみたくなったのである。初めてのミサで、わたしはただただ黙って祈っていた。ミサに出ていた他の方々も、静かに祈っていた。グレゴリアンシャントに似た旋律で歌う賛美と祈りの声が穏やかに響いた。

 ミサからの帰り、もしかしたら、春はもう真近に迫っているのかもしれないという微かな期待がふと心をよぎった。 

春を待つ公園の木々

雪解けのWhite Christmas

 

 12月16日、前夜に雪が降り、街は白銀の世界になった。昼頃になり、日差しが少し暖かく感じられた。それで散歩に出てみた。それまで少なくとも数日間、寒さで散歩がまったくできていなかった。身体が鈍ってしまい、心持ちも少しどんよりしていた。

 散歩に出ると、すっかりと雪化粧した街の風景は、穏やかな冬の日差しを受けて真っ白に輝いていた。空気は冷たかった。しかし、日差しが暖かかったので、冷たすぎはしなかった。。むしろ、冷たい大気を吸い込みながら白銀の世界を歩くのは、たいへん気持ちがよかった。

 雪が降り過ぎれば、外出はできない。散歩などはもちろん不可能だ。しかし降雪は多少あっても、よく晴れて日差しがある日であれば、これほど散歩にもってこいの時はない。子供の頃、私の住んでいた関東地方でも、真冬には結構雪が降り、街が一面の雪景色になることもあった。そんな時、何かの必要があって外を歩くとわくわくした。そんな長く忘れていた白銀の世界の真ん中を歩く楽しさを、知らず知らず、思い出していた。

 12月19日。この日も朝から雪の町を散歩した。

 

  12月23日。積雪はそれまでよりもっと深かった。それで歩いたのは、朝のほんの短い時間だけだった。

 12月24日。昨日のクリスマスイブの日の積雪も多く、ホワイトクリスマスを迎えようとしていた。

 12月25日クリスマス当日、積もった雪は大部溶け始めていた。

 雪が溶けのホワイトクリスマスになっていた。このあまりに厳しい現代世界にも、来年は、こんな雪解けの季節が訪れればよいのだが、と心の中で願った。朝日を照り返す真っ白な白銀の世界は美しい。だが、雪が溶け出していくときには、もっと豊かな美しさがあるように感じる。雪が溶けるとき、それまでに蓄積されていた多くのわだかまりまでもが、同時に解けていってくれるように感じる。雪は水となって、すべての生命を生かしていくものだからなのだろうか。

 Merry Christmas !

細やかな視点

 しばらく前に、NHKのニュースの中でのインタビューであったと思うが、倉本聰さんが、新作映画について語りつつ、現代人の美意識についてあるいは美に対する感受性について話をされていた。倉本さんのお話しは、私なりに纏めると、現代人は美を感じる力が落ちてきているといった内容であったと記憶している。それには、まったく同感だった。

 美しいものの美しさは、もちろん作品の売買される価格で決まるものではない。たとえば、唐突ではあるが、同じ映画のジャンルで言えば、若いときに観た「ブラザー・サン シスター・ムーン」を思い出す。フランチェスコがすべての私財を捨てて、何も持たずにただ自然を愛し弱いものに仕えて生きることを決意する。そのとき、彼と彼に従った者たちには、すべての大自然の限りない美しさが見えていた。

 そこまで大げさな決断とまではいかなくても、それまでずっとこだわって来たものが、ある時、スーッと抜けていったりすることがあるものだ。そんな時、それまでとは少しも変わらない同じ暮らしをしているのに、毎日見ているものすべてが、これまで経験したことないような生き生きした風景に見え始めてくる。そして、何でもないささやかなものまでが、どれもみな、とても美しく愛おしいものに見えてくる。

 何気ない風景や佇まいに「美」を見るということは、本当は、そんなふうにして可能になってくるのではないだろうか。画家が何気ない風景を本当に美しく描けるのは、画家の眼が、そんなふうに、肩の力を抜いた眼で一切を観ているからなのだと思う。それは何かを捨てたからこそ、見え始めた美しさなのだ。

 なんでもないものの美しさに気づき、それにハッとさせられて見入ることができるのは、肩の力が抜けた時だと思う。そしてそれはまた、肩の力が抜けたときこころの中に生まれてくる、柔らかな思いにもつながる。そういった時には、ものを見ているときの心持ちにも変化が起こっていて、気づかぬうちに、自分の眼が「細やかな視点」を持ち始めているものだ。「細やかな視点」というのは、「細かいことにこだわった視点」という意味ではない。そうではなく、見ているものを、ザックリと簡単な言葉でラベル付けてして片づけたりしてしまわず、むしろ何かを見ているうちに、こころの中に静かにゆっくりと、まるで詩人のように、自分自身の言葉が自然と紡ぎ出されて来るような、心持ちの「細やかさ」のことである。(逆に言えば、レディメイドの誰かららの受け売りでしかない言葉など、使わないのである。)

 なんでもないものが、それが生きものであっても、また必ずしも生きものではなくても、とても愛おしく親しみをもったものとして感じられる。悠久の時間と無限に広がる宇宙の中で、あっという間に過ぎ去って行く、この限られた人生の時間の中で、偶然に出会ったものたち同士なのだ。だからこそ、その一つ一つの出会いそのものが、無限に愛おしく美しいのである。

リズムの喪失-その2

 歳を重ねたからだろうか。以前はそれほどには興味を持たなかった日本映画をときどき観るようになった。少し古い昭和時代の映画を観ると、とても懐かしく思う。若い頃から、それほど頻繁に映画を観ることはなかった。ただ、もちろん、たまにはヒット作などを観てはいたのだが。

 つい暫く前だったが、インターネットにアップロードされていた映画「少年時代」を観た。映画は、1945年日終戦の1年ほど前に、東京で家族と住んでいた小学生が、富山県の片田舎の親類宅に一人で疎開するところから始まる。わたし自身行ったこともない富山の、しかもわたしが生まれるより10年も前の時代の田舎の風景、そこに佇む古びた木造の小学校とその周囲に薄く広がる人々が暮らしている街の家並み、そして小学校の生徒たちの間に展開していく、子供ながらにもさまざまな人間模様を織り成すドラマのような一年の四季の移り行き。

 戦争が終わって、東京から母親が迎えにくる。そして、母は一言、東京は空襲で大変だったと子に語るが、広島と長崎の原爆には言及しない。しかし、映画に感情移入しているわたしにからみれば、ああこの時すでに戦争が終わったばかりだったといたという想いや、広島と長崎はまさに原爆の被害の直後であった時なのだという想いなど、映画の中で描かれてはいない苦しみをも連想してしまうのを止めることができない。

 この映画の描き方が、時代の雰囲気をじつによく捉えているので、観ていながらその時代にいるような気持ちになるのである。わたし自身は昭和28年生まれだ。だから、昭和19年から20年までの一年間の記憶はもちろんない。しかし、現代からみれば昭和28年から数年ほどの時代は、まだまだ戦後すぐの時代の雰囲気をかなり残していたと思う。それに、わたしの両親は終戦の年には父がほぼ20歳で母は10代であったから、どうしても両親の人生を思うたびに、彼らが生きた厳しい時代への想いが湧き出てきてしまう。

 ネットで観た映画「少年時代」は、最後の部分で、主人公が汽車に乗って東京に帰るときに流れる井上陽水の「少年時代」の音声が、おそらく著作権の関係でカットされていた。それで、わたしは別の音楽配信で「少年時代」を聴きながら、映画のエピローグ部分を観て、その雰囲気に浸った。自分の経験でもないし、自分の生まれる10年も前の時代を描いたのに過ぎなかったのに、わたしはなぜか懐かしさで胸がいっぱいになった。

 その時代がよい時代だったというのではない。それはひどい時代だった。映画の中頃で、恋人が出征するので半ば気が狂ったようになった若い女性が出てくる。その描写はじつに写実的で、じっさいそういう人がいたに違いないと確信してしまう。それなのにどうしてその時代を懐かしく感じるのか、自分でもよくわからない。

 じつは、わたしはこの映画と前後して、丹波哲郎が刑事役をした、松本清張原作の「砂の器」の映画も観ていた。これはストーリーはフィクションだが、時代背景としては、やはり戦中から戦後の日本の生活がある。これもクライマックスで、主人公が子供時代にハンセン病を患う父親と二人きりで裏日本を放浪する場面の回想が入る。回想場面は、芥川也寸志作曲の音楽の盛り上がりと共に、病む父と子の二人だけの放浪がいかに苦しかっただろうかという視点をじつによく描いている。

 この映画にも、わたしはどうしようもない懐かしさを感じてしまう。それはフィクションだし、テーマはじつに苦しい人間の生活なのだが、しかし、おそらく、そこにある抵抗できないほど豊かな人間的な感情の世界が、その善し悪しに関わらず、懐かしくてたまらなくなってしまうのではないだろうか。

 さて、それがどうして「リズムの喪失」につながるのかと言えば、この2つの映画で描かれている夏、冬、春、秋は、じつにそれぞれ四季らしい四季なのだが、それらがどうしてかはわからないが、人生の四季をも同時に深く描いているとしか思えないのである。四季はただ自然の四季なのではない。それは人生の四季とつながる、とういよりむしろ人生の四季そのものですらあるように思えてしまう。

 そうった四季の感覚が、いつのまにか現代の自然から消えてしまったように感じるのは、やはりわたしが高齢になったからということだけなのであろうか。今、散歩をしながら、わたしはどこかで昔のような四季らしい四季を探しているのかもしれない。昔のように夏らしい夏、冬らしい冬、春らしい春、そして秋らしい秋である。植物さえ四季を間違える時代になって、人間もまた人生の四季を味わいつつ成長し成熟し老いてゆく時の流れを失いつつあるように思えてならない。

 

 

リズムの喪失

 しばらく前だったが、奈良県南部の彼岸花が例年より遅れて一斉に開花したというニュースを見た。開花が遅れたのは、夏の気温が高かったことが影響しているという話であった。

 今年の夏が異常な高温だったことにもよるだろうが、近頃散歩をしながら路傍の草木を見ていると、季節外れの花が咲いているのをよく見かける。それは開花の時期が多少遅れたいうよりは、明らかに狂い咲としか言えない季節外れの開花である。

 わたしがはじめて季節外れの花に驚いたのは、もう何年も前のことである。その頃は千葉県の都市部に住んでいた。ある年の秋、すでに10月の後半くらいになっていたのではないかと思うが、見慣れていたマンションの玄関アプローチに作られていた小さな花壇の紫陽花が一輪だけ狂い咲きしていたのである。そのような狂い咲きに気がついたのは、そのときがはじめてだった。

 だいたい紫陽花をいうのは梅雨の時期に一斉に咲くものである。多少の開花の時期のズレはあるものの、以前はおおよそその時期にどこでも開花していた。だから、紫陽花は梅雨の時期に相応しい雰囲気を自然に帯びていた。雨がしとしと降る梅雨寒の時期に街を歩いていると、路傍の花壇や近くの家の庭先にさまざまな色の紫陽花がその美しさを競うように咲いていた。それは長雨が続き梅雨の鬱陶しさで少し息苦しいような感じがしたりするときに、ふと目を止めるものの心を慰めてくれる鮮やかさと新鮮さと繊細さを兼ね備えていた。

 梅雨が終わって真夏になっても、しばらくは紫陽花の花は咲き続ける。しかし、盛夏を過ぎるころになると、いつのまにか紫陽花はほとんど枯れてしまっている。そして、ふと気がつくとそれまで美しい花を咲かせていた紫陽花の株には、枯れた紫陽花の花びらが満開のときの形をとどめたまま、枯れ果てた姿を見せている。紫陽花は咲いているときはとても美しいが、枯れたときの姿がちょっと寂し過ぎると言うひとがいた。そんなふうにして、だれもが紫陽花の咲く季節とそれがいつのまにか枯れてしまう季節の移り替わりを、ほぼ無意識のうちになぞりながら、四季が美しく移ろいいく日本の風景の中で生活していることの持つ季節感の豊かさを味わい楽しんでいたのである。

 その紫陽花が狂い咲くのを、その後毎年のように気づくようになった。それは東京都や千葉県などの関東地方でもそうだったし、その後十和田市に住むようになっても同様だった。いやむしろ狂い咲く花々を見るのは、いつの間にか日常茶飯事になってしまっていた。

 それまでは春にのみ咲くのを見ていたツツジなども、今年は秋が深まるころになってからも、あちこちで見かけるようになった。この狂い咲きの常態化にまだ気づいていない人は、少ないのではないだろうか。

 紅葉の始まり方がたどたどしくなってきたように感じるのも、わたしだけではないだろう。夏が終わって多少涼しくなりかけたころに、毎年紅葉する樹木の葉のほんの一部が、先走るのを申し訳なく思っているかのように、控えめに色づく。ところが翌日には、また気温が高めにぶり返すので、紅葉の勢いは止まってしまう。それどころか、まだ紅葉していない多くの枝の他の葉たちは、むしろ真夏のようにその青さを増し、青々とはつらつとした濃い緑を復活させたりするのである。

 この項目を書き始めたのは、1、2週間前であった。その後、まだまだ結構暖かい日があったりしたので、市街地の紅葉はなかなか進まなかった。この一両日やっと最低気温もかなり冷えるようになり、市街地の紅葉も始まってきている。十和田湖など、もう少し山に近い方に行けば、紅葉は見頃になってきているようなので、市街地の紅葉も次第に見頃を迎えることにはなるだろう。

 紅葉の美しさに心を洗われるのを待ち焦がれる思いに変わりはないが、春も秋もわからなくなってしまったような狂い咲きがこれほど頻繁に見られるようになった日本の風土で暮らしているのだから、ともかく今年も紅葉を楽しめさえできればそれで満足だといった、安穏とした季節感に浸ることはできない。

 四季のリズムがかくも激しく喪失した日本の風土を、どうやって本来の生命的なリズムを刻んでいた、人と社会のリズミカルな成熟をも支えるほどの豊かなリズムに回復させたらよいのかという、深刻な問題に立ち向かう責任の重大さを噛み締めながら、紅葉し始めてきた桜並木の下をひとり歩いている。

ジョウビタキ

 昨日も朝の外気には秋の冷たさがあった。いつもより早めに散歩に出た。散歩がもっとも充実するのは早朝だ。登ってくる朝日と冷えた大気に触れながら、朝露がまだ残る草花を探しながら歩くのは爽快だ。

 官庁街通りの歩道沿いに花壇で、いつものように手入れをされている方たちとはじめて短く挨拶を交わした。これだけの花壇を春の初めから秋の終わりまで、ずっと手入れをして守っておられるのには、頭が下がる。

 午後になって少し蒸し暑くなったが、今度は二人で近くまで散歩をした。その帰り道、近所の保全公園を歩いていると、草むらにスズメに似た野鳥が、少し躓きながら跳ねているのを見つけた。

 スズメによく似ていたが、よく見ると左右に黄色の羽根が飾りのようにあり、あまり見かけたことのない野鳥であることは、すぐ分かった。後で調べてみると、ジョウビタキという野鳥の写真とそっくりだったので、間違いないと思った。そのジョウビタキは明らかに弱っていた。歩き方が躓きながらだったし、もう飛ぶことはできないように見えた。

 チベットからバイカル湖を経て、越冬のために日本までやってくる渡り鳥である。まだ幼く見えたこのジョウビタキは、少し早めに日本まで渡ってきたものの、この蒸し暑さは予想外だったのではないだろうか。

 暑さで弱ってしまい、もしかしたらその上、期待したような餌も見つからなかったのではないだろうか。保護はできないものか、市役所や県の合同庁舎に電話してみたが、無理だった。夜は冷えたので、ジョウビタキには過ごしやすいのではないかと思っていた。夜が明け、ジョウビタキがまだ保全公園の草地にいるかどうか様子を見ながら散歩に出てみた。しかし、もう同じ場所にはいなかった。

 地球の一周の何分の一かの距離を渡ってきて、日本のちょうどこの街のこの公園の草地で、ひとり群れから逸れてただ弱っていたジョウビタキのことを思うと、やはり他人事のようには思えなかった。

 人が人生で渡っていく途方もない距離は、じつは空間的な距離ではなく時間的な距離だ。はるか彼方の生まれ故郷から何十年にも及ぶ時間の旅によってやっと辿り着いた街で、ひとり静かに死を迎えようとするとき、たまたまそこで出会った誰かがしずかに見守ってくれたなら、それだけで安心できるのではないだろうか。

 ふとそんな思いがして、ひとり亡くなって行こうとしていたジョウビタキのことを、今朝になってもどうしても忘れることができなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

ハツユキソウ

 今朝(2024.9.16)は、やっと秋らしく空気が冷えた。朝ゴミ出しで外に出ると、かなり涼しかった。薄手の服では風邪を引くので、着替えをして散歩に出た。日中にかけて日差しが強まりそうだったので、上着は持たないことにした

 朝の冷たい空気が頬に触れるのを感じながら散歩するのは、久しぶりのことだった。いつもの官庁街通りに出て、広い歩道を歩いた。

 抜けるような秋の青空と冷えた大気を貫いて、紅葉の遅れがちな桜並木に朝日が差し込んでいた。

2024.9.16.
2024/9/16

  十和田市現代美術館が、まるで秋の青空に縁取られた一つの作品であるかのように見えた。

2024.9.16.

 風景を撮りながら歩いた後で、冷たいコーヒーを飲み、それから北へ向かって、稲生川沿を歩いた。

2024.9.16.
2024.9.16.

 適当に道を選んで、畑と住宅が混在するあたりを歩いていると、以前歩いたことのある道に出た。一軒の家の前で庭仕事の装いをした方が座っておられた。ふと気づくと、それは以前ハツユキソウが植っているのを見つけた家だった。

 最近フェイスブックの草花のグループではじめてハツユキソウを見て、その美しさに感動していた。ハツユキソウがすぐ近所の家の庭先に植っているのに気づいたのは、それから数日後のことである。

 今朝その庭先にいた方に、ハツユキソウの枝を一本頂けませんかとお尋ねすると、快く承諾してくださった。一本だけのつもりだったが、もっと持っていきなさいと言われたので、その言葉に甘え3本も枝を頂いてきた。

 ハツユキソウが挿し木で根付くのかどうか、よくは知らないが、ともかく家にある鉢に植えてみた。

2024.9.16.

 ハツユキソウの花言葉は「祝福」「穏やかな生活」「好奇心」だそうである。また英語の花言葉は、Purity(純潔)、Simplicity(簡素)、Serenity(静けさ)だそうだ。

 朝の散歩で偶然頂いたハツユキソウが、根付いてくれることを願っている。

 (一つ付記しておくと、ハツユキソウの枝を切ると白い樹液が出る。これには毒があるそうで、触れるとかぶれることがあると書かれている。わたしも少し触れてしまったが、幸いかぶれなかった。しかし切花などをするときには、手袋を使用するなど注意をした方がよい。)

去り行く季節

 1日が終わろうとするのを、誰も止めることはできない。沈み行く西日がわずかに射していた十和田市民図書館脇の歩道は、間もなく暮れて行こうとしていた。

2024.9.9. 16:56.

 同様に季節が過ぎ去って行くのを、誰も押し止めることはできない。歩道の花壇に植えられた夏の草花にも、少しずつ枯れ始めた花が混じるようになってきた。枯れた花はたいてい人からは顧みられない。しかしよく注意してみると、花の一生が次第に終わって行くあり様は、どこか人の一生にも似て、枯れて行くものの美学を垣間見るような気がする。

2024.9.9. 16.49.

 太陽が沈んで日が暮れても、世界が終わったりはしない。むしろ夕闇の涼やかさの中に静かな休息の時が訪れる。夜の暗さは必ずしも不安を呼び起こすことはない。こころを静めて耳を澄ませば、無数の秋の虫たちが鳴き始める。

 ところで、わたしはペリー・コモ Perry Como の歌うAnd I love you so が好きだ。しかし、その歌詞には少しだけ頷けない部分がある。

 And yes, I know how lonely life can be.

 The shadows follow me and the night won’t set me free.

 But I don’t let the evening get me down.

 Now that you are around me.

というところである。

 これを解釈すると、わたしは人生がどんなに孤独か知っている、そして、夜の翳りはわたしを孤独から解き放つことなくむしろ辛さが増してしまうが、あなたが側にいてくれるようになったので、もう夕暮れになっても辛くはない、といったような意味になるだろう。

 この歌が人生の孤独の辛さがどれほど苦しいかを表現していることに、わたしは深い共感を覚える。しかし、その孤独を夜の闇と重ね合わせることには、必ずしも同意しない。

 というのは、ここでは具体的な人間が「あなた」として存在することが、唯一の癒しの源泉になっていて、対極的に「あなた」のいない夜の闇は辛さをもたらすものとして、否定的にのみ捉えられているように見える。

 しかし、人間が自然の中で生かされているという事実に鑑みれば、夜の静けさと涼やかさには、むしろ人間を取り巻く自然の生命的な脈動あるいは鼓動が潜んでいる、とさえ言える。そういった自然のもつ生命的な脈動や鼓動に気づき、静かに共鳴していくときにこそ、他の人間である「あなた」との出会いもまた、本来的な深さの次元を持ちうるのではないだろうか。つまり、人との出会いは、自然との出会いを背景として持っているのではないかと思えるのである。

 静まり返った夜に聴く秋の虫の声や風の囁きの中にこそ、むしろ静かな自然との本来的な出会いがあるのではないかと思える時がある。そしてそのとき、もし側に誰かがいれば、その出会いは永遠の出会いになっていくかもしれないのである。

祭りの夜

 1、2年前に山野草の盆栽をもらった。もらった時は、あまり元気な盆栽ではなかった。それをほとんど手入れもせず庭に置いておいた。すると冬を越し、いつの間にか元気になっていた。もう夏も過ぎ、盆栽自体はしだいに秋の風情へと移りかけていたが、昨日ふと見ると、小さな枝にキアゲハの幼虫が2匹いるのに気づいた。セリ科の植物の葉が好きだそうで、「にんじん畑の貴婦人」と呼ばれるほど美しい幼虫だ。庭ではあまり除草剤などは使わず、できるだけ自然のままにしておくようにしていた。いつの間にかキアゲハが卵を産みつけていたのだろう。

2024.8.8.
2024.9.8.

 出会いは人生の楽しみというより、むしろ人生そのものだ。子供のころ住んでいた家では、じつにさまざまな生き物との出会いがあった。もっと幼いころ住んでいた別の場所では、地域全体が、その時代ということももちろんあったが、自然の豊かさに満ち満ちていた。夏の夜、裏庭の外のせせらぎから蛍が何匹も舞って来て、窓を開け放した家の中へ入ってきた。それを蚊帳の中に入れて、緩やかに点滅する蛍の光に魅了されていた。そのころは、人との関わりももちろん濃密で、つねに出会いがあった。

 自分の住んでいる場所で、その地域の盛大な祭りを歩いて観にいくといういわばレトロな経験を、今日という日に、今ここで経験することになるとは、予想しなかった。

 町内会で秋祭りに参加するということで、そのお手伝いをほんの少しだけ、昨日(9月6日)させていただいた。夜慰労会に行くと、今日(9月7日土曜日)の夜の山車のパレードが一番見ものだから、ぜひ観た方がよいと強く勧められた。それで始めて、本腰で夕方暗くなりかけるのを待って、妻と二人で夜の十和田市秋祭りを観に行った。

 次第に暗くなってくると、多くの壮麗な山車が子供たちと若者たちによって引かれ、掛け声を伴った元気よい十和田囃子と太鼓車の上の力強い太鼓の演奏が響き渡った。広くまっすぐな大通りである十和田市官庁街通りには、数えきれないほどの夜店が並び、ライトアップされた広い歩道やその近くに陣取って見物する人、夜店の前を歩きながら見物する人たちで、たいへんな賑わいだった。

2024.9.7. 19:28.
2024.9.7. 19:28.
2024.9.7. 19:44.
2024.9.7. 19:24.
2024.9.7. 19:29.
2024.9.7. 19:27.

 歌謡曲の歌詞とはまったく違う意味だが、出会いはスローモーションである。70歳を過ぎて、貴婦人のようなキアゲハの幼虫と自分の家の庭で出会うとは思わなかった。また、自分の住む街で、こんなに盛大な祭りを妻と共に観ることになるとは思わなかった。それはまったく新しい経験なのに、一種の不思議なレトロ感に満ちていた。

 あたかも過去と現在と未来が、SF作品の中で融合したかのような光景が、現実のこととして眼の前にあった。そして、自分が過去と出会ったのか、それとも未来と出会ったのか分からなくなるような祝祭的時空の眩惑の中で、まるで時がスローモーションのようにゆっくりと流れて行くのを感じていた。