Riverside Walk and Mind-wandering

投稿者: Shigeo Kawazu

  • 去り行く季節

     1日が終わろうとするのを、誰も止めることはできない。沈み行く西日がわずかに射していた十和田市民図書館脇の歩道は、間もなく暮れて行こうとしていた。

    2024.9.9. 16:56.

     同様に季節が過ぎ去って行くのを、誰も押し止めることはできない。歩道の花壇に植えられた夏の草花にも、少しずつ枯れ始めた花が混じるようになってきた。枯れた花はたいてい人からは顧みられない。しかしよく注意してみると、花の一生が次第に終わって行くあり様は、どこか人の一生にも似て、枯れて行くものの美学を垣間見るような気がする。

    2024.9.9. 16.49.

     太陽が沈んで日が暮れても、世界が終わったりはしない。むしろ夕闇の涼やかさの中に静かな休息の時が訪れる。夜の暗さは必ずしも不安を呼び起こすことはない。こころを静めて耳を澄ませば、無数の秋の虫たちが鳴き始める。

     ところで、わたしはペリー・コモ Perry Como の歌うAnd I love you so が好きだ。しかし、その歌詞には少しだけ頷けない部分がある。

     And yes, I know how lonely life can be.

     The shadows follow me and the night won’t set me free.

     But I don’t let the evening get me down.

     Now that you are around me.

    というところである。

     これを解釈すると、わたしは人生がどんなに孤独か知っている、そして、夜の翳りはわたしを孤独から解き放つことなくむしろ辛さが増してしまうが、あなたが側にいてくれるようになったので、もう夕暮れになっても辛くはない、といったような意味になるだろう。

     この歌が人生の孤独の辛さがどれほど苦しいかを表現していることに、わたしは深い共感を覚える。しかし、その孤独を夜の闇と重ね合わせることには、必ずしも同意しない。

     というのは、ここでは具体的な人間が「あなた」として存在することが、唯一の癒しの源泉になっていて、対極的に「あなた」のいない夜の闇は辛さをもたらすものとして、否定的にのみ捉えられているように見える。

     しかし、人間が自然の中で生かされているという事実に鑑みれば、夜の静けさと涼やかさには、むしろ人間を取り巻く自然の生命的な脈動あるいは鼓動が潜んでいる、とさえ言える。そういった自然のもつ生命的な脈動や鼓動に気づき、静かに共鳴していくときにこそ、他の人間である「あなた」との出会いもまた、本来的な深さの次元を持ちうるのではないだろうか。つまり、人との出会いは、自然との出会いを背景として持っているのではないかと思えるのである。

     静まり返った夜に聴く秋の虫の声や風の囁きの中にこそ、むしろ静かな自然との本来的な出会いがあるのではないかと思える時がある。そしてそのとき、もし側に誰かがいれば、その出会いは永遠の出会いになっていくかもしれないのである。

  • 祭りの夜

     1、2年前に山野草の盆栽をもらった。もらった時は、あまり元気な盆栽ではなかった。それをほとんど手入れもせず庭に置いておいた。すると冬を越し、いつの間にか元気になっていた。もう夏も過ぎ、盆栽自体はしだいに秋の風情へと移りかけていたが、昨日ふと見ると、小さな枝にキアゲハの幼虫が2匹いるのに気づいた。セリ科の植物の葉が好きだそうで、「にんじん畑の貴婦人」と呼ばれるほど美しい幼虫だ。庭ではあまり除草剤などは使わず、できるだけ自然のままにしておくようにしていた。いつの間にかキアゲハが卵を産みつけていたのだろう。

    2024.8.8.
    2024.9.8.

     出会いは人生の楽しみというより、むしろ人生そのものだ。子供のころ住んでいた家では、じつにさまざまな生き物との出会いがあった。もっと幼いころ住んでいた別の場所では、地域全体が、その時代ということももちろんあったが、自然の豊かさに満ち満ちていた。夏の夜、裏庭の外のせせらぎから蛍が何匹も舞って来て、窓を開け放した家の中へ入ってきた。それを蚊帳の中に入れて、緩やかに点滅する蛍の光に魅了されていた。そのころは、人との関わりももちろん濃密で、つねに出会いがあった。

     自分の住んでいる場所で、その地域の盛大な祭りを歩いて観にいくといういわばレトロな経験を、今日という日に、今ここで経験することになるとは、予想しなかった。

     町内会で秋祭りに参加するということで、そのお手伝いをほんの少しだけ、昨日(9月6日)させていただいた。夜慰労会に行くと、今日(9月7日土曜日)の夜の山車のパレードが一番見ものだから、ぜひ観た方がよいと強く勧められた。それで始めて、本腰で夕方暗くなりかけるのを待って、妻と二人で夜の十和田市秋祭りを観に行った。

     次第に暗くなってくると、多くの壮麗な山車が子供たちと若者たちによって引かれ、掛け声を伴った元気よい十和田囃子と太鼓車の上の力強い太鼓の演奏が響き渡った。広くまっすぐな大通りである十和田市官庁街通りには、数えきれないほどの夜店が並び、ライトアップされた広い歩道やその近くに陣取って見物する人、夜店の前を歩きながら見物する人たちで、たいへんな賑わいだった。

    2024.9.7. 19:28.
    2024.9.7. 19:28.
    2024.9.7. 19:44.
    2024.9.7. 19:24.
    2024.9.7. 19:29.
    2024.9.7. 19:27.

     歌謡曲の歌詞とはまったく違う意味だが、出会いはスローモーションである。70歳を過ぎて、貴婦人のようなキアゲハの幼虫と自分の家の庭で出会うとは思わなかった。また、自分の住む街で、こんなに盛大な祭りを妻と共に観ることになるとは思わなかった。それはまったく新しい経験なのに、一種の不思議なレトロ感に満ちていた。

     あたかも過去と現在と未来が、SF作品の中で融合したかのような光景が、現実のこととして眼の前にあった。そして、自分が過去と出会ったのか、それとも未来と出会ったのか分からなくなるような祝祭的時空の眩惑の中で、まるで時がスローモーションのようにゆっくりと流れて行くのを感じていた。

  • 夏の余韻

     北東北の夏が終わろうとしている。昨日から夜がとても涼しくなった。朝晩が涼しくなったので、すでに猛暑の面影は失せた。 

     涼しくなると夏の疲労が出てくる。散歩しやすい時節になったが、しばらくは休息が必要だ。無理に散歩はせず、短いサイクリングをすることにした。 秋晴れのもと、ゆっくりサイクリングをするのは爽快だ。十和田市街はほぼまったく平坦なので、サイクリングにはもってこいの地形だ。午後の風は夏の火照りを失い、むしろ心地よく頬を撫でた。

     今日は写真を撮らなかった。しかしわたしの脳裏には、去って行く夏の余韻がリフレインのように残っている。

    2024.6.7.
    2024.6.16
    2024.6.16.
    2024.6.17.
    2024.6.17.
    2024.7.2.
    2024.7.6.
    2024.7.11.
    2024.7.14.
    2024.7.18.
    2024.7.31.
    2024.8.6.
    2024.8.6.
    2024.8.10.
    2024.8.11.
    2024.8.11.
    2024.8.15.
    2024.8.15.
    2024.8.16.
    2024.8.17
    2024.8.21.
    2024.8.23.
    2024.8.23.
    2024.8.28.
    2024.9.2.

     暑かった夏の終わりが近づいたころから、秋を待ちきれない樹々の梢がもみじし始めた。

     これから秋が深まれば、街には枯葉とそして別れを歌うジャジーな曲が流れ始める。

  • 川底の空

     午後になってから散歩に出た。 ・・・ 空。 秋の空は美しい。 高い梢の間から見上げる空には、どこか懐かしさを覚える。たぶん子供のころにも同じようにして、よく空を見上げていたのだ。

    十和田市八甲公園。2024.9.3. 15:00.
    同じ公園で。 2024.9.3. 15:01.

     官庁街通りの歩道を流れる稲生川を覗いて見ると、川底に空が見えた。無限に広がる大空が小さな人工河川である稲生川の浅い川底に映っている。まるで大空と小さく細やかな流れが、無言のうちに光によって交信し合っているかのようだ。無限の宇宙と小さな河川の呼応と響応。 ・・・ あたかも存在すること、生命が存在すること、すなわちこの地球に生命が存在することの本来の在り方が、じつは大空と宇宙と小さな地球との呼応であり響応なのだということを、密かに告知しているように想われてくる。 なぜ人間だけがお互いに呼応することそして響応することの意味を見失ってしまったのか?

    十和田市官庁街通り。 2024.9.3. 16:06.
    同じ場所で。 2024.9.3. 16:00.

     図書館で休んで、枕草子の現代語訳をパラパラとめくり、この歳になってやっとそのよさに目覚めた日本の古典文学にもっと触れなければと考えた。 夕刻になった通りに出て少し歩き、ちょうど西日が梢の間から溢れてきて背後から射している数頭の馬の像を見た。美しい。

    十和田市官庁街通り。2024.9.3. 16:52.

     

     さらに陽が落ちると、もう半袖では寒くなってきた。この十和田市ですらあまりに暑かった季節が、終わろうとしている。

  • 朝露、三題

     昼頃から雨が降るというので、ゴミ出しに出た後、散歩に出た。朝露の降りた花と葉はとても美しい。

    朝ゴミ出しの時官舎のフェンスにて撮影。十和田市、2024.9.2 8:00.
    十和田市官庁街通り 2024.9.2. 8:51.
    十和田市官庁街通り 2024.9.2. 8:52.

     ドイツの社会と政治について、ほとんど何も具体的にフォローして来なかった。しかし、ドイツの選挙で”極右”政党が躍進したというニュースには、やはり胸騒ぎと不安を覚える。何が起こっているのか学んで行かなければと、心中で深く反省する。移民や難民を受け入れることの難しさをほとんど何も知らない一日本人であるわたしだが、これは単に遠い国のことだから自分には関係がない、などと言っていて済まされる時代ではなくってきている。

     朝露の美しさに眼を奪われながらも、この現実の世界で時々刻々と起こっている、我々人間社会の問題を覚えずにはいられない。

  • 台風の余波

     スピードの大変遅い台風10号の影響で、すでに災害が発生し、さらに東海と関東でも大雨が降っている。

     台風の余波で、青森県でも今日は雨が降った。日中に雨が止んだので、散歩に出た。行き先は決めなかった。市街地の比較的交通量がある道路の歩道をまっすぐ歩いた。途中で道路脇の植え込みに咲いている花に眼が止まり、写真を撮った。

    十和田市街地で撮影。2024.8.31

     そのまま歩き家から少し離れたスーパーまで歩いたが、気温は約26℃で湿度は99%もあった。すでに4,000歩以上も歩いていたので、蒸し暑さが身体にこたえた。地元産の野菜がとても新鮮だったので数点購入し、帰りは市内の循環バスを利用することにした。帰る途中、また雨が降り出した。

     なんでもない散歩だが、いろいろと考えるともなく考えつつ歩いている。遅い台風の被害がすでに出ているので、そのことが気に掛かる。それからウクライナの戦争の被害やガザの現状について、心の深いところでつねに思いを馳せている。自分自身の生活上の事柄についてももちろん考える。ただ外を歩いていると、この街から遠く離れていても同じ空の下で生活している日本と世界の普通の人たちのことを思わずにはいられない。ペットが死んだだけでも、大変な苦しみを味わうのが人間だ。多くの死ぬ必要のない人が毎日死んでいくことを思うと、わたしなりにとても苦しい。自分では何もすることができないので、ただ歩きながら思いを馳せて祈るともなく祈っているのかもしれない。

     

  • 日々の散歩 Daily Walk

     天気がよければ、散歩に出ることにしている。街を流れる川沿いを歩いたり、市街地を歩いたりする。

     歩きながらときどき路傍の草木に眼を留める。季節によって草花や樹木の様子は変化するので、飽きることがない。ときどき深呼吸をしたり、ふと空を見上げたりする。空は常に変化しており、同じ空を見ることはない。青空であっても、青の色合いがじつにさまざまに変わる。雨上がりの後の早朝の青空など、眼も覚めるような深い輝きを持っていることがある。もしかしたら、ギリシアの空もこんなふうに深く輝いているのではないかと、行ったことがないので勝手に想像したりする。

     散歩をしながら、よくスマホで写真を撮ることにしている。わたしのスマホには15,000枚近い写真が保存されている。その大半は散歩のときなどの風景写真だ。

     散歩をしながら、いろいろなことをぼんやりと考える。意識的に何かを考えたりすることはしない。けれども景色を見ながら歩いているうちに、自然と心に浮かんでくることをいつのまにか考えていたりする。同じテーマにとくにこだわることもなく、歩いているうちに、気づくと路傍の花の美しさの方に心が奪われてしまい、それまでの思考がどこかへ消えてしまう。

     いろいろなことをぼんやりと思い巡らすことを、心理学ではマンドワンダリングと呼ぶようである。マインドワンダリングが心理学のテーマとして研究されていることは、比較的最近ある本を手にして知った1

     これから散歩の時の随想をブログとして書いていこうと思う。散歩の随想の持つマンドワンダリングとしての意味合いについて、時折触れることができれば、と願っている。

     十和田市官庁街通りで撮影。2024.8.21

     

    1. モシェ・バー(著),横澤一彦(翻訳) (2023)『マンイドワンダリング:さまよう心が育む創造性』勁草書房 ↩︎