しばらく前に、HNKのニュースの中でのインタビューであったと思うが、倉本聰さんが、新作映画について語りつつ、現代人の美意識についてあるいは美に対する感受性について話をされていた。倉本さんのお話しは、私なりに纏めると、現代人は美を感じる力が落ちてきているといった内容であったと記憶している。それには、まったく同感だった。
美しいものの美しさは、もちろん作品の売買される価格で決まるものではない。たとえば、唐突ではあるが、同じ映画のジャンルで言えば、若いときに観た「ブラザー・サン シスター・ムーン」を思い出す。フランチェスコがすべての私財を捨てて、何も持たずにただ自然を愛し弱いものに仕えて生きることを決意する。そのとき、彼と彼に従った者たちには、すべての大自然の限りない美しさが見えていた。
そこまで大げさな決断とまではいかなくても、それまでずっとこだわって来たものが、ある時、スーッと抜けていったりすることがあるものだ。そんな時、それまでとは少しも変わらない同じ暮らしなのに、毎日見ているものすべてが、それまで経験したことないような生き生きした風景に見え始める。そして、何でもないささやかなものが、どれもみな、とても美しく愛おしいものに見えて来たりする。
何気ない風景や佇まいに「美」を見るということ、本当は、そんなふうにして可能になっているのではないだろうか。画家が何気ない風景を本当に美しく描けるのは、画家の眼が、そんなふうに、肩の力を抜いた眼で観ているからなのだと思う。何かを捨てたからこそ、見え始めた美しさなのだ。
何でもないものの美しさに気づき、それにハッとさせられて見入ることができるのは、力が抜けた時だと思う。そしてそれはまた、力が抜けたときこころの中に生まれる、柔らかな思いにもつながる。そういう時には、ものを見ているときの心持ちにも変化が起こっていて、気づかぬうちに、眼が「細やかな視点」を持ち始めている。「細やかな視点」というのは、「細かいことにこだわった視点」という意味ではない。そうではなく、見ているものを、ザックリと簡単な言葉でラベル付けてして片づけたりしてしまわず、むしろ何かを見ているうちに、こころの中に静かにゆっくりと、自分自身の言葉がまるで詩人のように自然と紡がれて来るような、そんな「細やかさ」のことである。
なんでもないものが、生きものであっても、また必ずしも生きものでなくても、とても愛おしく感じられる。悠久の時間と無限に広がる宇宙の中で、この限られたあっという間に過ぎ去って行く人生の時間の中で、偶然に出会ったものたちなのだ。だから、その出会いそのものが、無限に愛おしく、美しいのである。