リズムの喪失-その2

 歳を重ねたからだろうか。以前はそれほどには興味を持たなかった日本映画をときどき観るようになった。少し古い昭和時代の映画を観ると、とても懐かしく思う。若い頃から、それほど頻繁に映画を観ることはなかった。ただ、もちろん、たまにはヒット作などを観てはいたのだが。

 つい暫く前だったが、インターネットにアップロードされていた映画「少年時代」を観た。映画は、1945年日終戦の1年ほど前に、東京で家族と住んでいた小学生が、富山県の片田舎の親類宅に一人で疎開するところから始まる。わたし自身行ったこともない富山の、しかもわたしが生まれるより10年も前の時代の田舎の風景、そこに佇む古びた木造の小学校とその周囲に薄く広がる人々が暮らしている街の家並み、そして小学校の生徒たちの間に展開していく、子供ながらにもさまざまな人間模様を織り成すドラマのような一年の四季の移り行き。

 戦争が終わって、東京から母親が迎えにくる。そして、母は一言、東京は空襲で大変だったと子に語るが、広島と長崎の原爆には言及しない。しかし、映画に感情移入しているわたしにからみれば、ああこの時すでに戦争が終わったばかりだったといたという想いや、広島と長崎はまさに原爆の被害の直後であった時なのだという想いなど、映画の中で描かれてはいない苦しみをも連想してしまうのを止めることができない。

 この映画の描き方が、時代の雰囲気をじつによく捉えているので、観ていながらその時代にいるような気持ちになるのである。わたし自身は昭和28年生まれだ。だから、昭和19年から20年までの一年間の記憶はもちろんない。しかし、現代からみれば昭和28年から数年ほどの時代は、まだまだ戦後すぐの時代の雰囲気をかなり残していたと思う。それに、わたしの両親は終戦の年には父がほぼ20歳で母は10代であったから、どうしても両親の人生を思うたびに、彼らが生きた厳しい時代への想いが湧き出てきてしまう。

 ネットで観た映画「少年時代」は、最後の部分で、主人公が汽車に乗って東京に帰るときに流れる井上陽水の「少年時代」の音声が、おそらく著作権の関係でカットされていた。それで、わたしは別の音楽配信で「少年時代」を聴きながら、映画のエピローグ部分を観て、その雰囲気に浸った。自分の経験でもないし、自分の生まれる10年も前の時代を描いたのに過ぎなかったのに、わたしはなぜか懐かしさで胸がいっぱいになった。

 その時代がよい時代だったというのではない。それはひどい時代だった。映画の中頃で、恋人が出征するので半ば気が狂ったようになった若い女性が出てくる。その描写はじつに写実的で、じっさいそういう人がいたに違いないと確信してしまう。それなのにどうしてその時代を懐かしく感じるのか、自分でもよくわからない。

 じつは、わたしはこの映画と前後して、丹波哲郎が刑事役をした、松本清張原作の「砂の器」の映画も観ていた。これはストーリーはフィクションだが、時代背景としては、やはり戦中から戦後の日本の生活がある。これもクライマックスで、主人公が子供時代にハンセン病を患う父親と二人きりで裏日本を放浪する場面の回想が入る。回想場面は、芥川也寸志作曲の音楽の盛り上がりと共に、病む父と子の二人だけの放浪がいかに苦しかっただろうかという視点をじつによく描いている。

 この映画にも、わたしはどうしようもない懐かしさを感じてしまう。それはフィクションだし、テーマはじつに苦しい人間の生活なのだが、しかし、おそらく、そこにある抵抗できないほど豊かな人間的な感情の世界が、その善し悪しに関わらず、懐かしくてたまらなくなってしまうのではないだろうか。

 さて、それがどうして「リズムの喪失」につながるのかと言えば、この2つの映画で描かれている夏、冬、春、秋は、じつにそれぞれ四季らしい四季なのだが、それらがどうしてかはわからないが、人生の四季をも同時に深く描いているとしか思えないのである。四季はただ自然の四季なのではない。それは人生の四季とつながる、とういよりむしろ人生の四季そのものですらあるように思えてしまう。

 そうった四季の感覚が、いつのまにか現代の自然から消えてしまったように感じるのは、やはりわたしが高齢になったからということだけなのであろうか。今、散歩をしながら、わたしはどこかで昔のような四季らしい四季を探しているのかもしれない。昔のように夏らしい夏、冬らしい冬、春らしい春、そして秋らしい秋である。植物さえ四季を間違える時代になって、人間もまた人生の四季を味わいつつ成長し成熟し老いてゆく時の流れを失いつつあるように思えてならない。

 

 

リズムの喪失

 しばらく前だったが、奈良県南部の彼岸花が例年より遅れて一斉に開花したというニュースを見た。開花が遅れたのは、夏の気温が高かったことが影響しているという話であった。

 今年の夏が異常な高温だったことにもよるだろうが、近頃散歩をしながら路傍の草木を見ていると、季節外れの花が咲いているのをよく見かける。それは開花の時期が多少遅れたいうよりは、明らかに狂い咲としか言えない季節外れの開花である。

 わたしがはじめて季節外れの花に驚いたのは、もう何年も前のことである。その頃は千葉県の都市部に住んでいた。ある年の秋、すでに10月の後半くらいになっていたのではないかと思うが、見慣れていたマンションの玄関アプローチに作られていた小さな花壇の紫陽花が一輪だけ狂い咲きしていたのである。そのような狂い咲きに気がついたのは、そのときがはじめてだった。

 だいたい紫陽花をいうのは梅雨の時期に一斉に咲くものである。多少の開花の時期のズレはあるものの、以前はおおよそその時期にどこでも開花していた。だから、紫陽花は梅雨の時期に相応しい雰囲気を自然に帯びていた。雨がしとしと降る梅雨寒の時期に街を歩いていると、路傍の花壇や近くの家の庭先にさまざまな色の紫陽花がその美しさを競うように咲いていた。それは長雨が続き梅雨の鬱陶しさで少し息苦しいような感じがしたりするときに、ふと目を止めるものの心を慰めてくれる鮮やかさと新鮮さと繊細さを兼ね備えていた。

 梅雨が終わって真夏になっても、しばらくは紫陽花の花は咲き続ける。しかし、盛夏を過ぎるころになると、いつのまにか紫陽花はほとんど枯れてしまっている。そして、ふと気がつくとそれまで美しい花を咲かせていた紫陽花の株には、枯れた紫陽花の花びらが満開のときの形をとどめたまま、枯れ果てた姿を見せている。紫陽花は咲いているときはとても美しいが、枯れたときの姿がちょっと寂し過ぎると言うひとがいた。そんなふうにして、だれもが紫陽花の咲く季節とそれがいつのまにか枯れてしまう季節の移り替わりを、ほぼ無意識のうちになぞりながら、四季が美しく移ろいいく日本の風景の中で生活していることの持つ季節感の豊かさを味わい楽しんでいたのである。

 その紫陽花が狂い咲くのを、その後毎年のように気づくようになった。それは東京都や千葉県などの関東地方でもそうだったし、その後十和田市に住むようになっても同様だった。いやむしろ狂い咲く花々を見るのは、いつの間にか日常茶飯事になってしまっていた。

 それまでは春にのみ咲くのを見ていたツツジなども、今年は秋が深まるころになってからも、あちこちで見かけるようになった。この狂い咲きの常態化にまだ気づいていない人は、少ないのではないだろうか。

 紅葉の始まり方がたどたどしくなってきたように感じるのも、わたしだけではないだろう。夏が終わって多少涼しくなりかけたころに、毎年紅葉する樹木の葉のほんの一部が、先走るのを申し訳なく思っているかのように、控えめに色づく。ところが翌日には、また気温が高めにぶり返すので、紅葉の勢いは止まってしまう。それどころか、まだ紅葉していない多くの枝の他の葉たちは、むしろ真夏のようにその青さを増し、青々とはつらつとした濃い緑を復活させたりするのである。

 この項目を書き始めたのは、1、2週間前であった。その後、まだまだ結構暖かい日があったりしたので、市街地の紅葉はなかなか進まなかった。この一両日やっと最低気温もかなり冷えるようになり、市街地の紅葉も始まってきている。十和田湖など、もう少し山に近い方に行けば、紅葉は見頃になってきているようなので、市街地の紅葉も次第に見頃を迎えることにはなるだろう。

 紅葉の美しさに心を洗われるのを待ち焦がれる思いに変わりはないが、春も秋もわからなくなってしまったような狂い咲きがこれほど頻繁に見られるようになった日本の風土で暮らしているのだから、ともかく今年も紅葉を楽しめさえできればそれで満足だといった、安穏とした季節感に浸ることはできない。

 四季のリズムがかくも激しく喪失した日本の風土を、どうやって本来の生命的なリズムを刻んでいた、人と社会のリズミカルな成熟をも支えるほどの豊かなリズムに回復させたらよいのかという、深刻な問題に立ち向かう責任の重大さを噛み締めながら、紅葉し始めてきた桜並木の下をひとり歩いている。