この冬は青森県は大雪だった。しかし、どうしてか十和田市ではそれほどでもなかった。青森市や弘前市や酸ヶ湯温泉の大雪のニュースが毎日のように続いていたので、十和田市でも同じような大雪に見舞われていると思われた方も多かったことと思う。しかし、実際は、それほどの大雪は十和田市ではなかった。2、3年前にかなりの大雪が続いたことがあったが、その時と比べれば、積雪は比較的少なく、除雪車もそれほど頻繁には来なかった。
ただ、降雪はそれほどではなくとも、寒さはかなり厳しかった。寒さというのは、天気予報で使う観測された気温というよりも、むしろ体感として感じられる寒さが、測定された気温よりもずっと寒いと感じることがたびたびあった。
外の風がとても冷たかった。2、3年前は、真冬でかなりの積雪が残っていても、朝のゴミ出しのあと、そのまま歩き出し、小一時間の散歩をすることも時々できた。実際、この冬も、昨年末ごろまではそれと似ていてときどき散歩もできた。新年になってからはだいぶ違った。積雪が少なく、気温もそれほどには低くない日でも、体感される外気が冷た過ぎて散歩など到底無理だった。
2月後半になっても、まだそんなとても冷たい風が吹く日が多かった。昨年までだと、2月末も押し迫り3月が近づくころには日差しの温もりの暖かく感じられる日もあって、晴れた日の散歩は結構楽しむことができるようになっていた。年が明けて新年になってからの冬の寒さはまったく違った。冷たい風が吹く日が多く、春が近づいているようにはなかなか感じられなかった。
振り返ってみれば、この地球上に一体本来の春はやって来るのだろうか。あまりに多くの人びとが苦しみの中に閉じ込められたままの日々を送っている。そして春が来るかなと思っていると、それどころかさらなる寒風が吹きすさび始める。
3月に入ってからも、暖かい日があったかと思うと、またとても冷たい風の吹く真冬のような寒さが戻って来た。まるで虐められているようにすら感じられた。春を待ち侘び、明るさと軽さと暖かさの到来を待ちわびているものの気持ちとしては、挫かされずにはおられなかった。
多くの人が何が正しいことであるのか知っている。それだのに、なぜか正義が実現しないどころか、ますます遠のいて行くようにすら見える。わたしは長く教師をして、それなりに一生懸命働いた。それが、老年になってから、世界中の苦しむ人がだんだんと増えて行くような世界になるとは夢にも思わなかった。わたしの仕事など、世の中のためには、なんの役にも立たなかったのではないかとすら思へてくる。
先日、カトリックのミサに初めて行った。50年以上前にプロテスタントの洗礼を受けていたが、これまで一度もカトリックのミサには出たことがなかった。それが、どうしてなのか自分でもわからないのだが、ふとカトリックのミサに出てみたくなったのである。初めてのミサで、わたしはただただ黙って祈っていた。ミサに出ていた他の方々も、静かに祈っていた。グレゴリアンシャントに似た旋律で歌う賛美と祈りの声が穏やかに響いた。
ミサからの帰り、もしかしたら、春はもう真近に迫っているのかもしれないという微かな期待がふと心をよぎった。
春を待つ公園の木々
