リズムの喪失

 しばらく前だったが、奈良県南部の彼岸花が例年より遅れて一斉に開花したというニュースを見た。開花が遅れたのは、夏の気温が高かったことが影響しているという話であった。

 今年の夏が異常な高温だったことにもよるだろうが、近頃散歩をしながら路傍の草木を見ていると、季節外れの花が咲いているのをよく見かける。それは開花の時期が多少遅れたいうよりは、明らかに狂い咲としか言えない季節外れの開花である。

 わたしがはじめて季節外れの花に驚いたのは、もう何年も前のことである。その頃は千葉県の都市部に住んでいた。ある年の秋、すでに10月の後半くらいになっていたのではないかと思うが、見慣れていたマンションの玄関アプローチに作られていた小さな花壇の紫陽花が一輪だけ狂い咲きしていたのである。そのような狂い咲きに気がついたのは、そのときがはじめてだった。

 だいたい紫陽花をいうのは梅雨の時期に一斉に咲くものである。多少の開花の時期のズレはあるものの、以前はおおよそその時期にどこでも開花していた。だから、紫陽花は梅雨の時期に相応しい雰囲気を自然に帯びていた。雨がしとしと降る梅雨寒の時期に街を歩いていると、路傍の花壇や近くの家の庭先にさまざまな色の紫陽花がその美しさを競うように咲いていた。それは長雨が続き梅雨の鬱陶しさで少し息苦しいような感じがしたりするときに、ふと目を止めるものの心を慰めてくれる鮮やかさと新鮮さと繊細さを兼ね備えていた。

 梅雨が終わって真夏になっても、しばらくは紫陽花の花は咲き続ける。しかし、盛夏を過ぎるころになると、いつのまにか紫陽花はほとんど枯れてしまっている。そして、ふと気がつくとそれまで美しい花を咲かせていた紫陽花の株には、枯れた紫陽花の花びらが満開のときの形をとどめたまま、枯れ果てた姿を見せている。紫陽花は咲いているときはとても美しいが、枯れたときの姿がちょっと寂し過ぎると言うひとがいた。そんなふうにして、だれもが紫陽花の咲く季節とそれがいつのまにか枯れてしまう季節の移り替わりを、ほぼ無意識のうちになぞりながら、四季が美しく移ろいいく日本の風景の中で生活していることの持つ季節感の豊かさを味わい楽しんでいたのである。

 その紫陽花が狂い咲くのを、その後毎年のように気づくようになった。それは東京都や千葉県などの関東地方でもそうだったし、その後十和田市に住むようになっても同様だった。いやむしろ狂い咲く花々を見るのは、いつの間にか日常茶飯事になってしまっていた。

 それまでは春にのみ咲くのを見ていたツツジなども、今年は秋が深まるころになってからも、あちこちで見かけるようになった。この狂い咲きの常態化にまだ気づいていない人は、少ないのではないだろうか。

 紅葉の始まり方がたどたどしくなってきたように感じるのも、わたしだけではないだろう。夏が終わって多少涼しくなりかけたころに、毎年紅葉する樹木の葉のほんの一部が、先走るのを申し訳なく思っているかのように、控えめに色づく。ところが翌日には、また気温が高めにぶり返すので、紅葉の勢いは止まってしまう。それどころか、まだ紅葉していない多くの枝の他の葉たちは、むしろ真夏のようにその青さを増し、青々とはつらつとした濃い緑を復活させたりするのである。

 この項目を書き始めたのは、1、2週間前であった。その後、まだまだ結構暖かい日があったりしたので、市街地の紅葉はなかなか進まなかった。この一両日やっと最低気温もかなり冷えるようになり、市街地の紅葉も始まってきている。十和田湖など、もう少し山に近い方に行けば、紅葉は見頃になってきているようなので、市街地の紅葉も次第に見頃を迎えることにはなるだろう。

 紅葉の美しさに心を洗われるのを待ち焦がれる思いに変わりはないが、春も秋もわからなくなってしまったような狂い咲きがこれほど頻繁に見られるようになった日本の風土で暮らしているのだから、ともかく今年も紅葉を楽しめさえできればそれで満足だといった、安穏とした季節感に浸ることはできない。

 四季のリズムがかくも激しく喪失した日本の風土を、どうやって本来の生命的なリズムを刻んでいた、人と社会のリズミカルな成熟をも支えるほどの豊かなリズムに回復させたらよいのかという、深刻な問題に立ち向かう責任の重大さを噛み締めながら、紅葉し始めてきた桜並木の下をひとり歩いている。